容齋隨筆_卷三張嘉貞譯文
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查閱典籍:《容齋隨筆》——「容齋隨筆·卷三張嘉貞」原文
唐朝張嘉貞任并州長史、天兵軍使,唐明皇想讓他當丞相,但忘了他的名字,便告中書侍郎韋抗說:‘我曾經記得他的風度品格,現在是北方的大將,姓張,雙名,你替我想想。”韋抗說:“是不是張齊丘?現在是朔方節度使。”唐明皇就讓他寫詔書,讓張齊丘當丞相。唐明皇夜里看大臣的表章,看到張嘉貞送上的疏文,便讓他當了丞相。評議家說唐明皇想重用人材,卻這樣魯莽,如不是見到張嘉貞的表章,就誤用了張齊丘。我經過考查,認為并不如此。按唐玄宗開元八年,張嘉貞任宰相,張齊丘是玄宗天寶八年才任朔方節度使的,相差三十年,怎么能象以上所說的呢?再說當時唐明皇即位不久,正在勵精圖始,不應該任命丞相而不知道姓名和官位,這只是鄭處誨所著的《 明皇雜錄》 胡記了此書,歷史學家誤用罷了。《 資治通鑒》 就沒有采用。唐張嘉貞為并州長史、天兵軍使,明皇欲相之,而忘其名,詔中書侍郎韋抗曰:“朕嘗記其風操,今為北方大將,張姓而復名,卿為我思之。”抗曰:“非張齊丘乎?今為朔方節度使。”帝即使作詔以為相。夜閱大臣表疏,得嘉貞所獻,遂相之。議者謂明皇欲大用人,而鹵莽若是,非得嘉貞表疏,則語相齊丘矣。予考其事大為不然。按開元八年,嘉貞為相,而齊丘以天寶八載始為朔方節度,相去三十年,安得如上所云者?又是時明皇臨御未久,方厲精為治,不應置相而不審其名位,蓋鄭處誨所著《明皇雜錄》妄載其事,史家誤采之也。《資治通鑒》棄不取云。
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